広島県東部の福山市にある福山城は今月、築城400年を迎える。街のシンボルである城は、77年前の8月8日、空襲で焼け落ちた悲劇の歴史がある。あの日、市民は燃える天守をどんな思いで見つめていたのか。記憶をたどる。
福山空襲
第2次大戦末期、米軍の空襲が地方都市に拡大し、航空部品を作る三菱電機の工場や、陸軍の歩兵第41連隊が置かれていた広島県福山市が目標となった。総務省のまとめでは、1945年8月8日夜の空襲で、市街地の8割に相当する1万179戸が焼失し、4万7326人が焼け出された。死者355人、負傷者864人。
新幹線のホームから間近に眺められる城として知られる福山城。JR福山駅北口から外に出ると、「一二三(ひふみ)段」と呼ばれる、ひな壇状に構成されたどっしりとした石垣が目の前にそびえ立つ。
その石垣の所々に、赤く変色して亀裂の入った石があることは、地元でよく知られている。
ちょうど77年前、この街と城、人々を襲った焼夷(しょうい)弾による火災の激しさを、見える形で伝える歴史の「証人」である。
1945年8月8日午後10時25分、米軍のB29爆撃機の大編隊が現れ、夜空を覆った。
国立国会図書館が所蔵する米軍の報告書などによると、爆撃に参加したのは90機余り。2日前に広島に原爆を落としたエノラ・ゲイと同じく、南洋のテニアン島から出撃した。
目標の街を昼間のように浮か…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル